タイトル:見えない瞳の中で
初夏の兆しが見えはじめた五月のある日、
新聞の片隅にも載らない交通事故が少女の身にふりかかった。
少女は道路に飛び出した子猫の命と引き替えに、自らの視力を失った。
それでも少女は自分自身に対して何の後悔の念も抱いてなかった。
薄れてゆく意識の中で胸に子猫の温もりを感じたとき、少女は微かにほほえんだという。
その優しき少女は名を『北原 美也』といった。
私は光なき世界の住人
暗闇の中で見つけたのは冷たい "現実"
翌日、病院の一室で私は目覚めた。
両親や主治医の先生は喜びの声をあげたけど、すぐに私の異常に気が付いた。
私の目に映るものは何一つなく、ただ暗闇だけの世界。
押しつぶされそうなまでの不安と孤独。
私の口からそのことが伝わったとき、見えることのない私の目に何かが映った。
それは感情とでも言おうか。
父の発する言葉の中からは "驚愕"
母の心の中からは "絶望"
そして二人とも揃って同じ感情を発していた。
それは、あの子猫に対する "憎しみ"
私は光なき世界の住人
見えない瞳が映し出すのは "真実"
私が光を失って一月が過ぎた。
両親は一日たりとも私のもとを訪れなかったことはなかった。
しかし二人の優しさの奥には、冷たい心の氷が張っている。
そんな偽りの瞳で見つめられるくらいなら、
いっそのこと、このまま見えないほうが幸せだった。
しかし私の意志とは関係なく、手術は始まった。
麻酔で混濁した意識の中、私は夢を見た。
―哀しい目をしてるね―
見えない瞳を開くと、一人の男の子が映っていた。
後ろ足で立つと自分の背丈を超えてしまうほどの、大きな褐色の犬を連れて。
開口一番、男の子はそう言った。
年の頃は7〜8歳くらいだろうか。女の子も驚くほどの綺麗なソプラノの声は、まるで天使の奏でる楽器を思わせる。
それでもその声に若干の曇りを感じるのは、"哀"
の気持ちが宿っているからなのであろう。
そしてこの子に "哀"
の感情を植え付けたのは、他ならぬ私自身であった。
私は…どう返事をしていいものか分からず、ただずっと黙っていた。
私は光なき世界の住人
もう常闇に慣れてしまった…
手術は成功だと聞いた。
しかしそれが本当なのか、私には分からない。
ただ、これだけは言える。
私はもう現実の世界を見たくない。
そこでは人はみんな、瞳の奥に真実を隠している。
優しい言葉に隠された、全てを否定する声を。
優しい態度に隠された、自分を認めてもらいたい欲求を。
ならばこの見えない瞳のままで、真実だけを見続けていたい。
たとえそれが無情な世界しか映し出さなくても、
誰にも裏切られることなく過ごせていけるのならば…。
私は光なき世界の住人
一条の光とて存在しない、ただひんやりとした空気だけが漂う世界
差しのべる手はなく
かけてくる言葉もない
ただ冷たい視線だけが通り過ぎてゆく
とても寂しい…
誰か……
誰か、私をここから出して…!
瞬間、誰かの大きな手に掴まった気がした。
―見えない瞳は心の扉を開き、自分を映す
鏡のように向き合って、見つめるその目は
"もう一人の私" ―
これは "見えない"
という現実の中で生まれた懐疑の心が映しだした、お前自身の未来…。
そして俺は "光を求めたい"
という呼びかけで生まれた、もう一人のお前自身。
人は一度疑いのまなざしを向けると、その縛から逃れられなくなる。
素直であれ。いつもの自分を忘れるな。
あのとき子猫に向けた優しい瞳を持っているということを。
そしてお前自身、皆からそんな瞳で見つめられていることを。
まばゆい光の向こうに二人の人影が見えた。
以前会ったあの男の子と、そのそばには褐色の肌をした背の高い人が立っていた。
私は気が付いた。彼らは私自身であることを。
初めて出会ったあのとき、"哀"
の感情を抱いたのも、
全て私自身を映しだしていたのだ。
でも今は違う。
男の子は微笑んでいた。
そして、私も。
―そうだ、これをあげるよ―
男の子の言葉で、私の前に小さな光り輝く玉があらわれた。
それに手を触れた瞬間、私は意識が急に遠のいていくのを感じた。
優しい瞳に見送られながら…。
翌朝、目に巻かれていた包帯を取るときがきた。
ぼんやりとした景色に、まだ夢の世界ではないかと錯覚をおこしてしまう。
が、これは紛れもなく私自身の瞳が映し出す、本当の世界なのだ。
ふと、視界に両親の姿が映った。途端に涙がこぼれた。
『ごめんなさい…』
私は私自身の懐疑の念に駆られて、二人に疑いの目を向けていたことを悔やんだ。
だって私にはいつも、あの優しい瞳が向けられていたのだから。
握りしめた手のひらに固い感触があった。
広げてみるとそこには、あのときの少年の心を映しだしたかのような美しい鈴があった。
チリンという音色に、あの天使の声が聞こえたような気がした。
もう、あの男の子に会うこともないだろう。
優しい瞳に見つめられる私に、疑心は生まれないから。
そう
私は光あふれる世界の住人
〜おわり〜